そうてゃんの発狂五月雨チンジャオランド🌎

ブログでは一人称が僕になります。

死について

Waiting for そうてゃん

 

突然なのですが皆さんは「自分の死」を実感したことってありますか???

僕も人間である以上、というか生物である以上、いまは元気でも確実に死の瞬間は来るということはわかっていても、それを実感することってあんまりないというか、「自分が死ぬ」ということを理解できることはないと思う。

というか自分の死について考えれば考えるほどわからなくなっていく気さえする。

僕は5歳のときに母方のひいおじいちゃんが亡くなって、10歳のときに母方のおばあちゃんが亡くなって、14歳のときに母方のひいおばあちゃんが亡くなって、19歳のときに父方のおばあちゃんの姉(お父さんから見た伯母さん)が亡くなって、身内の死に直面したことは何度もあった。だがそのときも、「自分自身の死」については実感することはなかった。

 

ただ、いままでの人生で唯一、はっきりと自分の死を感じた経験が、小学5年生のときに一度だけあった。

給食と掃除とお昼休みのあと、5時間目は国語の授業で、僕たちは金子みすゞの文章を読んでいた。

みんな真面目に先生のお話を聞き、ノートを取っていたとき、突然僕の机が横に揺れ始めた。

いや、揺れているのは僕の机だけではなかった。

椅子も、隣の子の席も、窓も扉も後ろの水槽も天井も床も、空間すべてが激しく揺れた。

2011年3月11日午後2時46分、のちに東日本大震災と呼ばれることになる大地震が発生した瞬間だった。

僕が当時通っていた小学校があった地域は、たしか震度5弱だったと思う。

先生の指示で、急いで机の下に隠れた。

いままでの人生でまったく経験したことの無い大きさの揺れに、焦り、恐怖を感じた。

いままで散々、避難訓練で机の下に潜るのはやってきた。

教頭先生の「これは避難訓練です」という放送が入り、みんなで騒ぎながら机の下に隠れて、下でこっそり隣の席の友達とふざけて、先生に真面目にやれと怒られるやつを、いままで何度もやってきた。

でも、まさか「本番」がやってくるなんて思ってもみなかった。

不思議なものだ。本番を想定しての訓練だったはずなのに、いざ本番が来ると圧倒的な恐怖に襲われてしまう。

鼓動が早まっているのを感じる。

机の脚を掴む手が震えているのを感じる。

 

その時、教室のちょうど真ん中のあたりの席にいた、ひとりの男子生徒の声が聞こえた。

「──俺たちここで死ぬのかな」

その瞬間、はっと我に返った気がした。

「おい田村!!」「田村そんなこと言うな!!」と、周りの生徒がその男子生徒(田村)を責める声が、なぜかすごく遠くに感じた。

あれほど感じていた恐怖や焦りが、一瞬にして消えてしまった。

死を目の当たりにしている人間が近くにいる

その事実によって、僕自身も自分の死に向き合わされた。

「自分の死」という、いままで知っているつもりになっていただけでまったく認識していなかったことが、はじめて具体的な形をとって、僕の眼前に現れた。

それが、僕がいままでの人生で唯一、はっきりと自分の死を感じた瞬間だ。

当時のことは未だにはっきりと記憶に残っている。

もう10年も前の出来事を、これだけ長々と文章化できるほど、克明に覚えている。それだけに、死の実感が僕にとって大きなものだったということだろう。

 

そしてそのときに気づいたことがある。

人は本当に死を目の当たりにしたときには、なにも恐怖を感じなくなるということ。

結局僕は今でも元気に生きてるし、小学5年生の僕が感じた実感は、自分自身の死というもののほんの入り口の部分にすぎないのだろう。

それでも、田村の発言によってほんの少しだけでも自分の死を実感したとき、僕は恐怖を感じなくなってしまった。

 

賛否両論あることは承知のうえであえて言うと、それ以来僕は死ぬのがあまり怖くなくなった。

きっと本当に自分の人生の最期の瞬間は、まったく怖くないと思うのだ。

では、死に対して恐怖を感じることがあるのは何故なのか。

あくまで僕個人の考えだが、それはおそらく、「死を経験したことが無い自分」に対して恐怖を感じているのではないか、と思う。

たとえば、電車を乗り過ごして急に知らない駅で降ろされてしまったら恐怖や不安を感じると思う。

それは自分が知らない街の知らない駅に来てしまってどうすればいいかわからないと思うから怖いのであって、その街や駅自体が怖いということではない。

死に対する恐怖も実は本質的にはこれと同じなのかもしれないと、僕は思う。

乗り過ごしたとしても過去に行ったことがある駅だったら、どこに行けばホームがあって、何番線に乗ったら帰れるかがわかるから怖くないはずだ。

同様に、仮にもめちゃくちゃ忠実な臨死体験ができたら、人は死への恐怖を感じることがなくなる or 少なくなると思う。

「死」それ自体が怖いのではなく、「死を知らない」ということから発生する恐怖なのではないか。

しかし、これは考えてみればごく当たり前のことだ。自分の知らないものや未経験のことが怖いと感じるのは、人として当然のことではないか。

そう気づいてから、自分の死への恐怖を感じそうになっても、「怖いのはしょうがないか〜〜〜僕まだ一回も死んだことないしな」とすぐに思えるようになって、結果的に怖くなくなった。

ただ、もちろん死への恐怖を感じることが駄目だとか恥ずかしいことだとか言うつもりは一切無い。

上に述べた通り、それは当たり前のことだからだ。

死ぬのが怖いと思うのは仕方のないこと。

いちおう参考程度に、僕みたいな捉え方もあるよということを紹介しておきたいと思って書いてみました。

 

珍しく、ものすごい真面目に書いた。

こんなに真面目に書いたのはこないだの年金の回とその前の🕊の回くらいだ。

まあたまにはこういう話もありかもしれないよな。

 

最後まで読んでくださってありがとうございます🥰